今日は天候のせいか、感情が急旋回急上昇急降下している

いい日もあれば悪い日もあって、明日はどんな日になるのか楽しみもあれば不安もある

 

今日は映画を二本みた。どっちも原作が作者の自伝だった

一本目は精神科に入っていた女の子の自伝で、二本目は14歳でヤク中売春婦になった女の子の自伝

一本目の17歳のカルテは最近ハマっててよく見るんだけど、二本目はリスチーネ・fていうドイツ映画で今日初めて見た

昨日ドーバーでお父さんとたまたまラフを見てたら、秋冬の新作が並んでてこの映画がモチーフになってた。

ただでさえいつも高いし、驚くほど可愛いってわけでもなかったのに、異常に高過ぎたから気になっちゃって今日お父さんと借りに行ったのだが、本物のデヴィッドボウイが出ていてナルホド❗️😃となった

 

普通の女の子だった子がどんどん薬物依存になってく日常がただ映し出されてる

見ているとふわふわした気持ちになる、楽しいふわふわとかではなくて、薬飲んだからだと思うけど、寝ぼけてる時とかちょっと酔っ払ってる時みたいな感じ。

知らん間に私の処方せんも、映画と同時進行でかなり減っていってた。多分メンタル相当整ってないと見るの危なそう

 

明るいシーンが一回もなくて上がる場面一回もない。けど臨場感が半端なくて、自分は見ているだけなのになんとなく薬物依存者になってく感覚がする

私は感情移入しがちな性格なのか、主観的になっちゃってどんどん沼にハマってく感じがした。たった2時間の映画なのに映画で省略されてる時間も、自分もそこにいた感じ。

いつも客観的に物事見れる人は、多分違う見方ができてそれはそれで楽しそうだ〜

私が少女漫画の実写化とか見る感覚なのかも

まあ見ないのですが。つまりそういうことなんだろうな。

 

レオンとか好きでよく見るけど、あれは泣けちゃったりする。

でも今日見たのは、変に媚びてなくて等身大の女の子が見れるからとても好き

 

明日は友達とお昼ご飯を食べにいく、楽しみだ。今日は早く寝よう

🎂

 

眠れないからブログを書く

 

今日は1週間ぶりに東京に戻りました、1日だけ。女が好きそーなカフェに行ったり、病院に行ったり、銀座で服見てご飯を食べた。お昼に行ったカフェ、OLが無表情でパンケーキの写真撮って無表情で食ってた。「#お洒落さんと繋がりたい」の裏側を見た。たまにあの光景の見るけど私はめっちゃ好き、女の子だなって思うし気分良くなる

 

実はこの前、お医者にめちゃくちゃ怒られ実家帰れと言われたから、その日に帰って今日でちょうど1週間経った。

最初は自分はどこにいても無理だ、とか思っていたけど最近眠れる日もあったりして調子が良い。特に人に会ったりとかはしてないけど、図書館行ったり、家族で回転寿司行ったり、映画見たり、お母さんとサーティーワン食べたり、お父さんとも食べた、なんか楽しい

今もチョコとか食べてる。二の腕がぷにぷにしてきた、それくらい心もぷにぷにしきて余裕って言ってる。だから眠れなくてもヒスりません

昔はお化けが怖くて眠れないと布団かぶってたけど、お化けより何より自分が1番怖いということに気づき無敵になった

 

最近AbemaTVで、恋愛リアリティーショーみたいなのを永遠に観てる。お前さWってなるくだらなさがたまらなく楽しい。私ってわりとそういうことですぐ楽しくなっちゃうってことも思い出した

もしかしたら私は千と千尋の神隠しの千みたいに、湯婆婆にいろいろ取られてるのかもしれん。ほんとははなって名前じゃないのかも。前に千と千尋の神隠しを見たときに、湯屋のタイムカード的なやつに「はな」って名前が紛れててすごく焦った。これはありえるな

はなじゃないならなんなんだろうな〜パンジー……Wとかだったらマジでやだ

 

最近見た映画で面白かったやつの話をします。

17歳のカルテっていう映画です。若いウィノナライダーがめちゃくちゃかわいくてショートが似合う。アンジェリーナジョリーさんも素敵だった

もともと原作が自伝らしく、ウィノナライダーが原作に共感して、製作総指揮と主演をしたらしい。境界性パーソナリティ障害の話なのだけど、主演の2人とも実際シャブ中だったらしくてだからこそめちゃくちゃリアルで、ドキュメンタリー番組見てるみたいだった

 

あと、今日は大好きな女の子の誕生日だ。何だかんだちゃんとお祝いするのは今年で3回目だ。チェキを見返してたら15歳の自分とか出てきて、あのちゃんも私も顔がどんどん大人になってた。

なんとなーく日々を過ごしていたけど、気づかないうちに女の子は大人になるんだなぁ(T . T)とか思った。あっという間に過ぎた時間だったけど、いろいろあって、その中でも拗れていた時期もあったりとか懐かしい。懐かしいって思えるくらいあのちゃんの進化を見てこれたことが嬉しい

内容のある話久しくしていないから、次会ったら内容のある話をしたい

アイドルとしてではなくて人として好きだということとか、「人」という漢字で例えるならあのちゃんは二画目の部分です。とかな

私だけじゃなくて皆もきっとそうだってことも

どんな顔するかな、嬉しい顔してくれるかな、そんなの知ってるよって言ってくれるかな。まあ、あのちゃんが笑えばそれで良い、あの顔を見るとホッてあったかくなる。あとは、ただ言えるうちに言っておきたいだけというエゴ

好きでい続けられることに自信を持ってなさそうだから

 

最近はそんな感じだ

書くの飽きた、寝る

便所飯

おはようございます

 

昨日は夜急に勝手にしんどくなって薬を飲んでバコンと寝た6:00am

マジで早くこれをやめたいと思って帰省時少なめに持って来たのに足りなくてソワソワしてる

私は病んでるわけじゃないしメンヘラとかそんないいものでもない、ただちょっと変なんだと思う。

保育園の頃から周りと同じことができないから、先生には毎日怒られてたし、なんか鬼ごっこすれば鬼やらされるし、家族ごっこすれば犬役とかやらされるタイプの子どもだった。なんで自分がみんなと同じことができないのか全然分からなかった。

だからおやつの時間とお昼の時間が大っ嫌いだった。友だちが少ないから今日は誰が隣の席なんだろうとか、馬鹿なりの脳みそで考えてた

だからたまに自由に座っていいよって時はいつも自分の椅子だけなくて(T . T)ってなってた

子供の頃から被害者ぶってたんだなって感じ

 

 

成長してからは周りとの差を理解してきて、例えば便所飯とかよくするが全く寂しいと感じない

むしろ好きなのかもしれない、人といる時の自分が面倒くさいに変わってなんとなくトイレでお弁当を食べるようになって、それが心地よくなっているのかもしれん

 

人といると駄目になるのに1人だともっと駄目になる、どっちも違った意味で駄目になる

常に数学みたいに人生計算してるから0か100かでしか判断ができない。100になれる時がほとんどない、つまり常に0状態。だから自分は辛いんだ‼️とか馬鹿みたいなこと思い込み始める、だからすごく欲張りになる。

 

ただのわがまま人間みたいで思考にむかつく

ブログを書きたい気持ちになったので書いてます

 

最近は楽しい時は超楽しくて辛い時は超辛い

超楽しい時のわたしは(๑>◡<๑)🌸😻❤️⤴︎こういう感じで超辛い時のわたしはもう何もないです

これは最強に需要がない話だしわたしの説明書だと思ってほしい

 

夏休みはバイトしたり、やめたり、入院したり、退院したり、アイドルのライブに行ったり、好きな人とご飯作ったり、家具屋さんに行って生活雑貨揃えたり、かわいい喫茶店に行ったり、家族でお買い物したり、ディズニーに行ったり、映画を見ておんおん泣いたり、めっちゃいろいろしている。こんなに充実した毎日でも夜とかはやっぱり何もない空っぽになっちゃう。

 

いくらその日楽しくても寝るまでに死にたいと思ったらその日が全部台無しになってしまう。そして帰省するとお父さんとお母さんを起こして泣きながら熱弁して迷惑をかけている

 

死にたくないから死にたいと思うのが怖い。から死にたい。を毎日繰り返してる

「もし明日、今日よりも早く死にたい自分が現れたらどうしよう」という不安で眠れない

 

私の中にもう1人私がいてその人が毎日私を迎えに来る

その人が私は世界で一番嫌い誰より嫌い。自分のことが嫌いなんじゃなくて、私を傷つける私の中の私が大っ嫌い死んじゃえばいい。だから死にたいと思ってしまう(時もある)

 

でも振り返って考えてみると生きたい時間の方がはるかに長いからめっちゃ生きる、誰より生きる、強欲に生きる

 

私は欲張りだから幸せを求めて、許されたいから不幸を求めてるのだと。

なのに辛いと感じたから死にたいとか言う。それじゃ赤ちゃんだよ〜だめだよ〜って感じ

 

あとは脳みそを「できなきゃいけない」じゃなくて「できたらいいな」に変換しましょう。これは最近カウンセラーのおばあちゃんが教えてくれて響いた。彼女は超素敵!私も年取ったらあんな風になれたらいいな

今日の山梨の気温は40度。台風13号も発生したらしい。まあ私には関係ないけど

 

入院生活もだんだんしんどくなってくる頃かなと思ったらやっぱりそうだった

悪い予感で大抵あたってしまう。でも社会心理の授業で「人間は思い込みで自分をコントロールしてしまう」と聞いた。"なっちゃった"じゃなくて、"しちゃった"ってこと

 

私は昔から被害念慮がものすごい

だから人に何か1つ否定されると全否定されたと感じてしまう。自分でもわかっているが思想のコントロールは難しくてなかなかやめられない

 

看護師は私たちを精神異常者として扱うから人権を失った気持ちになる。看護師さんに何か言わるとすぐ泣いてしまう。患者さんに理不尽にキレられても泣いてしまう。患者さんはそれが病気で入院してるとわかっているのに、何故か自分を責めて泣いてしまう。精神病棟への入院てなんか修行みたいだ

 

それも捉え方の違いかもしれないけど、複雑骨折で入院してその足を蹴られ続けてる感覚。

 

病気に対して怒ることで病気が治るわけじゃない、むしろ悪化すると思う。社会に適合できなかった人間に社会不適合って言うのもおかしいよ。看護師は弱化の随伴性で患者をコントロールしがち。気持ちはひとそれぞれだから仕方ないと思うけど。でも入院中に怒られるという行為が私にとって嫌子となっているなら意味がない、今はトイレに行くことも怖くてなんか泣いてる

心境

 

昔のブログを読み返した。ちょうど一年前、保護入院する前の記事とかは病みすぎてて相当大変そうだな、保護入院て本人の意思は無視されるいわゆる半強制入院

 

そして今年、また、精神が異常気象を起こして入院した。今回は任意入院らしい。搬送されて気づいたらここにいたので正直まだ実感がない。任意のはずなのに保護や措置みたい。でも思ったのは入院制度での看護師の対応の差。お前らすごいなって感じ

 

社会に出ると社会不適合と言われるのに、病棟に入って患者さんを見ると不覚にも自分なんてまだまだ大丈夫じゃんと思ってしまう。だからこそこの中途半端なところにいる自分が生ぬるくて気持ち悪い

 

私は統合失調症なわけでもないのに

任意入院のはずが私は書類にサインすらしていないし

 

これも全部親のエゴなのかと思ってしまった

私の両親は私のことをすごく愛してくれる、過保護なくらいに大好きでいてくれる。わたしも2人が大好き。お父さんと2人でディズニーに行ったら映画見に行ったり、2人で服を見に行ったりする。お母さんとはいつも遊んでて最近はよく新大久保に行く。毎日面会にもきてくれる、わたしの好きなブランドも2人の影響

 

そんな両親でもたまに憎くて憎くてたまらなくなる時がある。愛されすぎて好きすぎてそれ以上の感覚を知ってしまうとそこにはアメーバみたいな言葉にならない感情が存在する。好きな歌手がそんなことを言っていて自分にはないと思っていたが自分にもあった、最近気づいた。愛も憎悪もぜんぶそこにある。だから言葉にすると全部が壊れる

 

わたしには4つ上の姉がいる。お姉ちゃんはわたしの分身みたいなもので悪く言えば共依存。辛いも楽しいも全部一緒に感じてきた。その場にいなくてもお姉ちゃんが辛ければわたしも辛いし、お姉ちゃんが嬉しいと多分わたしはそれ以上に喜ぶ。私の全てを受け入れてくれるお姉ちゃんは私の唯一の理解者で生きてる意味

 

だからわたしはまだまだ生きるしきっと誰より生きたがってる

 

入院生活は暇だから人間観察論文を書こうと思う。理不尽な看護師がいたからそれがきっかけ。対象は患者と看護師、たまに主治医とカウンセラーも例外として加えたい。目的と内容は"患者対看護師の関係性"と"それぞれの人間性"、"看護師から患者への対応の違いとそれによる影響"をグループ分けして見て生きたい。それを通して自分のなりたい人間像を作る、あくまで人間観察なので利己的見解は含まないものとする。

 

この生活も人生だし無駄にならないように職場体験だと思って適当に過ごすつもり

 

 

3日前、薬をたくさん飲んだらしい、抗精神病薬抗不安薬抗うつ剤睡眠薬全部で60錠ほど飲んで首吊りをくりかえしていたみたいだ。でもやっぱり怖かったの苦しかったのか、警察やお姉ちゃんに止められ私は今生きている。周りの人間が生きてと言ってた、そして今もこうやって小さな画面に向かって気持ちを綴っている。なんだ変だよ気持ち悪い

 

警察が来て、パキッていた私は"誰ですか?そうですかしね"と言ったらしい。それでも警察は業務的な態度のまま救急隊とともに私を担架で運んでくれた。そのまま世田谷の病院に運ばれたらしい。丸一日意識を失い、目が覚めた時には地元の病院のベットで点滴につながれていた。

 

やっと意識が戻った昨日、主治医に2ヶ月ほど入院と言われた。一時的な保護だと思っていた私はトラウマで頭がいっぱいだった。監視カメラと盗聴器のついた部屋、鍵のかかったトイレ、体重の管理、電子機器も持ち込み禁止。どうしようどうしよう。でも前とは違う病院で主治医も優しい先生だった。保護室入院はなんとか逃れられたものの精神病棟への入院に「またか」と思ってしまった

 

おそらく私は死にたかったのだろう、何もかも嫌になったのだろう、ここ数週間"死ぬ"という選択肢が常に自分の中にあった。友達に遊びにに誘われても"生きてたらね"って心では思っていた。死はわたしのおまもりだ

 

私は死にたいという感情を愚かなものだと思っていない。どうして生きることが100%正しいのかがわからないから。「死にたい」=「ディズニー行きたい」そんな感じ。

 

生まれたことに感謝しろだなんてそんなの初期装備が整っていて生きることに意義を感じる人間の戯言にしか聞こえない。

「死んだら皆んなが悲しむよ」とか「生きたくても生きられない人がいる」とかそれは残された側の気持ちであって、私は私のやりたいことをするために生きている。

 

私の住む世界が地上だとしたらみんなの住む世界は地獄かもしれないし天国かもしれない。その逆だってある。生きたい人はたくさんいる、死に物狂いで涙を浮かべて生きている人もたくさんいる。

でもさ、此の期に及んでまで、なぜ私は人に同情しなくてはならないのだろうか。なぜ「死ぬのは愚かだ」と言う人間のエゴに向き合わなければいけないのか。なぜ、生きたい人間の気持ちに基準を合わせなくてはいけないのか。つらくて疲れて明日が怖くて、それでもなお生きたかった人のために私は自分の命を延長しなくてはいけないのか。わからない。

 

皆んなが走るレールから外れた人間が非難される人生なんてどう考えても生きづらい、それにその列車から途中で降りることが許されない人生もどうかしてる

 

私たちは産まれた瞬間から生きることを強要されて生きてきた。根本にはいつも生きることが強要されている。そして自殺願望者はは非難され、死ねば労われる。おかしい

 

死んだらそれで終わりだ辛いことからも解放されるとともに、これからの幸せを手にすることもできない。

でも、もし、考え方に余裕が持てるなら考えてみたい、今私を悩ませていることは死ななければ解決しないことなのか。それは「復讐のために死ぬ」ということなんじゃないか、もし「自分のためだけに生きる」を選択したら人生はもっと楽になるのではないだろうか。人は死んじゃダメだと思うから辛くなるし死にたくなる

 

考えに考えてそれがベストアンサーなら私の人生は最高だ。「どうせ死ぬ」なんてマイナスな言葉じゃないだってどうせ死ぬし

メンヘラはきもいとかうつ病は甘えなんていう人はたくさんいる。人はマイナスな意見に目を向けがちだけどその分悩んでる人もたくさんいる。そのなかでお互いが寄りそって共存できたらいいのにね

 

病棟には色々な人がいて、私の隣のベッドのおばあちゃんは1日中正座をしている。おはようって言っても私に気づきもしない。廊下を何往復もするおじいちゃんもいれば3時間かけてお茶を飲む男性、何度も何度も手を洗うおばちゃんもいる。それすらもきもいの一言でかたづいちゃうのか。彼らは「考える」ことすら出来ない。当然「死ぬ」と言う選択肢も浮かばないまま生き地獄で苦しんでいる。苦しんでいることさえわからない、見ている私は悲しいと感じた、でも実際本人がどう思ってるかなんてわからない。死にたいといった私はすきな人とディズニーに行く予定にワクワクして生きる気満々。めちゃくちゃに生を感じた。同時に欲深自分が恥ずかしくなった。

 

 

「死」をお守りにする。人生は死ぬことを選択肢に入れた途端ずっと楽になる、選択肢も広がる。「死ぬ=自分のために生きる」ことだと私は思う。死ぬことを許した時、人はずっと強くなれると思う。守らなきゃいけないもの、貴方が背負ってきた荷物も全部なくなるから。要するに死にたくなったら死ぬ前にとりあえず全部捨てちゃえってことだ