3日前、薬をたくさん飲んだらしい、抗精神病薬抗不安薬抗うつ剤睡眠薬全部で60錠ほど飲んで首吊りをくりかえしていたみたいだ。でもやっぱり怖かったの苦しかったのか、警察やお姉ちゃんに止められ私は今生きている。周りの人間が生きてと言ってた、そして今もこうやって小さな画面に向かって気持ちを綴っている。なんだ変だよ気持ち悪い

 

警察が来て、パキッていた私は"誰ですか?そうですかしね"と言ったらしい。それでも警察は業務的な態度のまま救急隊とともに私を担架で運んでくれた。そのまま世田谷の病院に運ばれたらしい。丸一日意識を失い、目が覚めた時には地元の病院のベットで点滴につながれていた。

 

やっと意識が戻った昨日、主治医に2ヶ月ほど入院と言われた。一時的な保護だと思っていた私はトラウマで頭がいっぱいだった。監視カメラと盗聴器のついた部屋、鍵のかかったトイレ、体重の管理、電子機器も持ち込み禁止。どうしようどうしよう。でも前とは違う病院で主治医も優しい先生だった。保護室入院はなんとか逃れられたものの精神病棟への入院に「またか」と思ってしまった

 

おそらく私は死にたかったのだろう、何もかも嫌になったのだろう、ここ数週間"死ぬ"という選択肢が常に自分の中にあった。友達に遊びにに誘われても"生きてたらね"って心では思っていた。死はわたしのおまもりだ

 

私は死にたいという感情を愚かなものだと思っていない。どうして生きることが100%正しいのかがわからないから。「死にたい」=「ディズニー行きたい」そんな感じ。

 

生まれたことに感謝しろだなんてそんなの初期装備が整っていて生きることに意義を感じる人間の戯言にしか聞こえない。

「死んだら皆んなが悲しむよ」とか「生きたくても生きられない人がいる」とかそれは残された側の気持ちであって、私は私のやりたいことをするために生きている。

 

私の住む世界が地上だとしたらみんなの住む世界は地獄かもしれないし天国かもしれない。その逆だってある。生きたい人はたくさんいる、死に物狂いで涙を浮かべて生きている人もたくさんいる。

でもさ、此の期に及んでまで、なぜ私は人に同情しなくてはならないのだろうか。なぜ「死ぬのは愚かだ」と言う人間のエゴに向き合わなければいけないのか。なぜ、生きたい人間の気持ちに基準を合わせなくてはいけないのか。つらくて疲れて明日が怖くて、それでもなお生きたかった人のために私は自分の命を延長しなくてはいけないのか。わからない。

 

皆んなが走るレールから外れた人間が非難される人生なんてどう考えても生きづらい、それにその列車から途中で降りることが許されない人生もどうかしてる

 

私たちは産まれた瞬間から生きることを強要されて生きてきた。根本にはいつも生きることが強要されている。そして自殺願望者はは非難され、死ねば労われる。おかしい

 

死んだらそれで終わりだ辛いことからも解放されるとともに、これからの幸せを手にすることもできない。

でも、もし、考え方に余裕が持てるなら考えてみたい、今私を悩ませていることは死ななければ解決しないことなのか。それは「復讐のために死ぬ」ということなんじゃないか、もし「自分のためだけに生きる」を選択したら人生はもっと楽になるのではないだろうか。人は死んじゃダメだと思うから辛くなるし死にたくなる

 

考えに考えてそれがベストアンサーなら私の人生は最高だ。「どうせ死ぬ」なんてマイナスな言葉じゃないだってどうせ死ぬし

メンヘラはきもいとかうつ病は甘えなんていう人はたくさんいる。人はマイナスな意見に目を向けがちだけどその分悩んでる人もたくさんいる。そのなかでお互いが寄りそって共存できたらいいのにね

 

病棟には色々な人がいて、私の隣のベッドのおばあちゃんは1日中正座をしている。おはようって言っても私に気づきもしない。廊下を何往復もするおじいちゃんもいれば3時間かけてお茶を飲む男性、何度も何度も手を洗うおばちゃんもいる。それすらもきもいの一言でかたづいちゃうのか。彼らは「考える」ことすら出来ない。当然「死ぬ」と言う選択肢も浮かばないまま生き地獄で苦しんでいる。苦しんでいることさえわからない、見ている私は悲しいと感じた、でも実際本人がどう思ってるかなんてわからない。死にたいといった私はすきな人とディズニーに行く予定にワクワクして生きる気満々。めちゃくちゃに生を感じた。同時に欲深自分が恥ずかしくなった。

 

 

「死」をお守りにする。人生は死ぬことを選択肢に入れた途端ずっと楽になる、選択肢も広がる。「死ぬ=自分のために生きる」ことだと私は思う。死ぬことを許した時、人はずっと強くなれると思う。守らなきゃいけないもの、貴方が背負ってきた荷物も全部なくなるから。要するに死にたくなったら死ぬ前にとりあえず全部捨てちゃえってことだ